ある先生の昼休み

ちょっとの時間でちょっとためになる(かも)先生のお話

普通と幸せのお話

こんにちは。リリです。

 

昨年、勤務していた高校でこんなことを話す生徒がいました。

「私はみんなの普通が普通じゃないから、幸せにはなれないんだよね、たぶん。」

 

皆さんは「幸せ」を考えたときに何を思い浮かべるでしょうか。

結婚、マイホーム、家族、綺麗な車、、、、、このようなものを想像される方が多いのではないでしょうか。

 

「幸せという言葉の具現化」。

この行為こそが「幸せ」という言葉に「普通」という基準を作っているのです。

そして「普通」は、誰かを一生涯かけて苦しめる呪縛のような言葉なのです。

 

普通に大学に行って、普通に就職する、それこそが「幸せ」への後押しだと信じて我々教員は教育を施します。でもその「幸せ」は「大多数の幸せ」なんですよね。

絶対にそれに当てはまらない生徒はいるわけで、彼ら彼女らにとって学校の教育は「幸せ」から遠ざかっていくものの一つであるとして、我々はどうあるべきなのか。未だに答えは出ません。

 

けれども、「幸せ」の中身が違っても、共感することはできるはずです。理解できなくとも、理解したくなくとも、自分の話に耳を傾けてくれた人の存在は、聞いてもらえたという経験は、少なくとも彼ら彼女らにとっての「小さな幸せ」ではあるはずです。

 

教員なんて、誰にも当てはまる大きな幸せを与えられる万能な生き物であありません。だからこそ、具現化されていない小さな幸せを与けえ続けたいと思うのです。

 

生徒が話したあの言葉は今、でも私の心を揺さぶり続けています。

 

戻れる場所のお話

こんにちは。リリです。

昨日、ふと思い立ちブログを開設したのですが、何人かの方が見てくださったようです。本当にありがとうございます。

 

なぜこんな時間に更新ができるのか、というと心の病で学校をお休みしているからなのです。こんなにも照っている空の下、鬱々とモノクロの世界を過ごしていた日々にちょっとだけ色が付いたように思えます。

 

心を病んでしまった時、一番多くかけられた言葉があります。それは「実家に帰ってゆっくりお休み」です。

この言葉を聞く度に私は、ああ、この人は大事に、少なくとも邪険にされずに育ったんだろうなあ、などと考えます。

だって、自分が大切にされない場所に行かせようなんてことを考える人はそうそういないのですから。

私の生い立ちはここでは伏せますが、ここで重要なことは居場所があることの大事さです。

 

居場所の存在は、その人自身を支える柱と言っても過言ではありません。

その柱は多ければ多いほど、人は安定して立ち続けることができます。

 

学校や教員の役目はそこにあるのではないか、とも思います。この人は、この場所は、どんな私でも受け入れてくれる、と思えるような、いわば「ベースキャンプ」のようなものであるべきなのです。

もちろん、生まれ育った家もそうであってほしいのです。自分がどれだけ惨めで人に誇れぬ姿になったとて、ここは自分を受け入れてくれる、という「愛情」を誰しもが求めています。特に子どもはその欲求が満たされぬ時、行動として顕著に表れてしまいます。

 

私も早く居場所としての機能を全うするべく、現場に戻らねばなりません。

「普通」を褒めることができる人でいたいお話

私が子どもを教育する上で大事にしていることの1つに「特別支援教育の目線からの指導」があります。

 

特別支援教育に対する皆さんのイメージってどんなものでしょうか。

 

言葉が通じない、食事の介助、トイレの介助、など、割とマイナスなイメージを持っている方が多いのではないかと思います。

学校は勉強を教える場であるはずなのに生活の介助って、本当に教育?と思われる方も多いかもしれません。

 

しかし、私は子どもの育成において欠かせないエッセンスが特別支援教育の核となっていると感じています。

 

それはハードルを下げること。(書き方は良くないかもしれませんが…)

 

できて当たり前、いわゆる「普通」がどれだけ尊く、子どもの成長の結晶なのか。

例えば排泄を行うという、私たちにとって造作もない行為は7つのステップがあると言われています。

1. 尿意・便意に気が付く

2. トイレという存在を認識し、その場に行く

3. トイレに入り、衣類を脱ぐ

4. 排泄を行う

5. 衣類を着る

6. 排泄物を流す

7. トイレから居住スペースに戻る

このどれか1つでも欠けてしまうとトイレは「失敗」です。排泄を行うことはかなり高度なんです。

 

このように物事を細分化させて見てみると、毎日授業を座って聞いて、場合によっては復習なんてして、提出物を出さないにしても期日に追われている感覚はある、ってすごいことに感じませんか?

学校側が求めているハードルって実はものすごく高度なんですよ。でも、教員になる人ってそれを難なくこなしてしまっていた人たちですから、そのすごさに気付いてあげられないことも多いんです。

 

でもやっぱり、ずっとそこに甘んじていては逆に成長を妨げてしまうこともあるわけで…「普通」を認めて褒めてあげるのはタイミングの見極めが重要だと思います。

普段の会話で「……でも○○ってやらなきゃいけないこと分かってるからそれだけでもすごいよな~、まあ、しっかりやれてたらなおさらすごいよね…」などと独り言のように話してあげるのがいいのかな、と思います。

 

「普通」って、実はとてもすごいことだよ、というお話でした。

はじめに

はじめまして。地方の高校で教員をしているリリと申します。

 

大学では日本語学と特別支援教育を主に学びました。特別支援教育がメインの思考回路なので他の先生からは「甘いよ!」なんて言われながらもなんとか教員を続けています。

 

唐突ではありますが、学校の先生って何を考えているかわからない、なんとなく「独特な身近な大人」じゃないですか?

え、何でここでこんなこと言うの!?とか、何でこんなに怒られるの!?とか、私が幼い頃は疑問にあふれていました。

その疑問がいつしか嫌悪になり、「こんなに先生の嫌なところ知っているんだから自分はめちゃくちゃ良い先生になれる!」なんて思い上がってこんなところまで来てしまいました。我ながら、全く大人になれなかった大人だな、と思い恥ずかしくなります。

 

少し逸れてしまいましたが、このブログを通して「聖職者」なんて言われてちょっと近寄りがたい教員という職業に少しでも親しみを持ってくれると嬉しいな、と思っています。

 

担当教科は国語なので、小論文や志望理由書、面接対策などに迷える中高生の皆さんに向けた内容もちょこちょこ盛り込んでいきたいなと思っています。

 

ちょっと変わっている先生のつぶやきをコーヒー片手に流し読みしていただけたらと思います。皆様よろしくお願いします!